ユニフォームと一緒に、脱げなかったもの
夜勤明け、ロッカーでユニフォームを脱ぐ。 ボタンを外して、袖を抜いて、ハンガーにかける。いつもの手順だ。 でもそのとき、ふと思うことがある。 この服と一緒に、何…
夜勤明け、ロッカーでユニフォームを脱ぐ。
ボタンを外して、袖を抜いて、ハンガーにかける。いつもの手順だ。
でもそのとき、ふと思うことがある。
この服と一緒に、何か脱げていたらよかったのに。

患者さんの不安。家族の怒り。後輩の戸惑い。 夜勤の間に浴びた、いろんな人の感情。 ユニフォームのように脱いで、ロッカーに閉じ込めて、鍵をかけて帰れたら。
でも実際は違った。全部、家に持ち帰っていた。 ユニフォームはロッカーに置いてきたのに、感情だけがついてくる。
シャワーを浴びても落ちない。布団に入っても消えない。目を閉じると、さっきの患者さんの顔が浮かぶ。
26年間、ずっとそうだった。
「自分VS自分」の続きに、もう一人いた
先日、 頭の中の「批評家」について書いた 。帰り道に始まる反省会。終電のない議論。あの記事にたくさんの反応をいただいた。
「わかります」「私もそうです」という声。読みながら、ああ、みんな同じなんだと思った。
でも書きながら気づいたことがある。
自分を裁いているのは「自分の中の批評家」だけじゃなかった。
もう一人いた。 誰かの感情を引き受けて、それを抱えたまま自分を裁いている自分。批評家の隣に、もう一人の被告が座っていた。

INFJという気質を持つ人には覚えがあるかもしれない。相手の感情が、まるで自分のもののように体に入ってくる。
境界線がないまま受け止めて、気づいたときには自分が消耗している。
そしてその消耗に気づかないまま、 「もっとうまくやれたはずだ」 と自分を裁き始める。
引き受けた感情と、自分の反省が混ざって、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
後輩が泣きながら相談に来たことがあった。異動先でうまくいかない、先輩に聞いても冷たくあしらわれる、もう辞めたい。そう言って泣いた。
私は受け止めた。うなずいて、「大丈夫だよ」と言った。
「最初はみんなそうだよ」と、自分の経験を話した。後輩は少し落ち着いて、「ありがとうございます」と帰っていった。

その夜、私がぐったりしていた。後輩の問題は何も解決していないのに。
まるで私が泣いたかのように、体が重かった。ソファに座ったまま動けなくて、夕飯を作る気力もなかった。
「共感」と「背負う」は、バイタルサインが違う
看護師は患者の状態をバイタルサインで読む。血圧、脈拍、呼吸。数値が変わったとき、何かが起きている。
感情にも、バイタルサインがあると思っている。
「共感」しているとき、私は相手の隣にいる。痛みを感じる。つらそうな顔を見て、胸が締まる。
でも自分の足で立っている。自分と相手の間に、薄い膜がある。 疲れはするけれど、ひと晩寝れば戻る。
「背負う」に変わった瞬間、その膜が消える。
私自身の数値が動き出す。相手が泣いた夜、私も消耗する。
相手の不安が、いつの間にか私の不安になっている。

翌朝、まだ重たい。休んだはずなのに、回復していない。 何が重たいのかもわからない。自分が疲れているのか、誰かの疲れを引き受けたのか、その境界すら見えなくなっている。
患者さんの家族が怒鳴った日のことを、今でも覚えている。
「なんでもっと早く気づかなかったんですか」と言われた。

医学的には適切な対応だった。チームも同じ判断だった。でも家に帰ってからも、あの声が頭の中で響いていた。
怒りの矛先は私じゃなかった。家族自身の不安だった。それはわかっている。わかっているのに、体が反応していた。
この違いに、26年間気づかなかった。
気づかないまま、誰かのバイタルが乱れるたびに、自分のバイタルも連動させていた。急変対応のモニターアラームが鳴るように、他人の感情のアラームに、 私の体が反応し続けていた 。
防護服は、自分のために着る
感染対策の防護服を着るとき、目的は二つある。患者を守ること。そして、自分を守ること。
感情にも同じことが言えた。
「寄り添いなさい」と教わった。看護学校でも、現場でも。それは正しい。
でも誰も「寄り添った後、自分の感情をどう守るか」は教えてくれなかった。

手袋の外し方は習った。ガウンの脱ぎ方も習った。でも、他人の感情を浴びた後の「脱ぎ方」は、カリキュラムのどこにもなかった。
隣に立つことと、荷物を全部持つことは、違う。
「あなたの感情はあなたのもの。私はここにいる。でも背負わない」
これは冷たさじゃない。相手を一人の人間として尊重する姿勢だと、今は思う。
背負っていた頃の私は、寄り添っているつもりで、実は自分を守ることだけで精いっぱいだった。
相手の顔を見ているようで、自分の消耗ばかり測っていた。
糸が切れる前に降りる勇気 を持てなかった頃の話だ。
境界線を引いてからのほうが、相手の目をまっすぐ見れるようになった。不思議だった。
距離を取ったほうが、ちゃんと寄り添えている。荷物を持たないほうが、隣に長くいられる。
気合いは、消耗品だった
4月になると、職場の景色が変わる。新しい顔、新しい関係、新しい感情のやりとり。
「気合いで乗り切ろう」と思う人が増える時期だと思う。私もそうだった。新年度のたびに気持ちを入れ替えて、 「今年こそ引きずらない自分になる」 と決意していた。手帳にそう書いた年もあった。
でも気合いは消耗品だった。 底が抜ける日が来る 。
気合いで感情を制御しようとすると、制御できなくなったとき、一気に決壊する。私は何度もそれを経験した。
感情の疲れは「頑張る」では解決しない。仕組みを作ることで、はじめて消耗しなくなる。
私がやっていることはシンプルだ。相手の感情に触れた後、自分のバイタルを確認する習慣をつけた。
「これは私の感情か。それとも、誰かの感情を引き受けたものか」と。

たったそれだけの問いかけだ。でも区別できるだけで、だいぶ軽くなった。全部降ろせなくていい。
「これは私のものじゃない」と気づくだけで、荷物の重さが変わる。背負っていたものが消えるわけじゃない。
ただ、「これは私が持つべきものじゃなかった」と気づく。それだけで、肩の力が抜ける。
あなたへ
今、誰かの感情を背負っていませんか。
患者さんの。後輩の。家族の。新しい職場の、まだ名前も覚えていない人の。
4月は特にそうだと思う。まだ信頼関係もない相手の感情を、受け止めなきゃいけない場面がたくさんある。
名前を覚える前に、その人の不安を背負っている。そんな毎日が続いているんじゃないかと思う。
夜、ぐったりしているとき。その疲れは、あなた自身の疲れですか。それとも、誰かの感情を引き受けた疲れですか。
体の疲れなら、寝れば回復する。でも「誰かの感情を持ち帰った疲れ」は、寝ても抜けない。朝起きたとき、まだ重たい。それは気合いが足りないんじゃない。
持つべきじゃなかった荷物を、持っているだけだ。
その区別がつくだけで、少し楽になる。
私がそうだった。
